立教大学清談会の議事録、会長の雑記など。

Is reality really real?

 「うそつきは泥棒の始まり」というフレーズを誰しも一度は聞いたことがあると思います。この言葉自体、「うそつき」と「泥棒」の間にいろいろ飛躍してることがあってまさに「ホントに?」と疑ってしまいたくなりますね。まあ、言葉のあやっていうことで今のところはそこは深入りしないでおきましょう。

 ところでわたしたちは日常的に「ウソ」に接しています。一番分かりやすいところでいうと映画やドラマ、小説やマンガといったフィクション作品です。実際には存在しない人を描いたり、自分ではない人のふりをして自分のものではない言葉を発したり・・・。これって「あ、オレオレ」で始まって「〇〇さんという人がお金を受け取りに行くから」という詐欺の常套手段と同じですよね?しかも金額の大小はあれどお金をとられる(取られる・盗られる)という点でも同じです。どうして同じ「ウソ」なのに一方は「文化」として人々に受け入れられ、もう一方は「詐欺」として人々から蔑まれるのでしょうか。

 これらのあいだの大きな違いとして「ウソ」であるということをあらかじめ公言しているか隠しているかという点が上げられます。小説にしろ、映画にしろ、最初から「本物」ではないということを知っていたらそれを丸ごと「楽しもう」といって「ウソ」にすすんでお金を払うのです。しかも内容を徹底的に「虚構」すなわち「ウソ」で固めたもののほうがおもしろくて、中途半端に「リアリティ」を追求したものは凡庸に感じてしまいます。もちろん映画や演劇などではストーリーだけではなく演出技法によっても面白くなるとは思います。ですが、演出技法も「日常」では気にも留めないようなことに焦点をあてたり、そもそも「日常」からはかけ離れた表現をしたりと、「日常」すなわち私たちが普段見ている「現実」とはかけ離れているという点で「ウソ」の一種だと思います。そう考えるとストーリーにしろ、演出にしろ、どうも僕たちは「ウソ」を求めているようです。

 一方、オレオレ詐欺のような「ウソ」は「ウソ」であるということを隠しています。最初は本当に「息子が事故にあった」と信じていたのに後になってそもそも電話をかけてきた相手が息子ですらなかったという「現実」を知ってしまうというのは文字通り「騙された」と思います。本当に息子が事故にあっていたなら100万円振り込んだところでショックは小さいのではないでしょうか。(もちろんその場合、純粋に息子を心配するとは思いますが…)つまりわたしたちはわたしたちが生きている「現実」そのものが「ウソ」になるのがいやなのかなと思います。

 思うに僕たちは「ウソ」を「ウソ」と知った上でそれを傍観しているのが好きなのではないでしょうか。「ウソ」か「マコト」か分からないような「現実」よりも徹底して「ウソ」だと貫き通している「フィクション」のほうが安心できるという気持ちはなんとなく分かります。アニメで出てくるようなかわいい女の子や白馬に乗って迎えに来てくれる皇子様は存在しませんが、存在しないと分かっているからこそ魅かれてしまうと思うのです(笑)。仮にそのような人が「現実」に存在したとしても「真実」の皮をかぶった「ウソ」であるという可能性も十分あるということです。誤解を恐れずにいうと一見「理想」的な人も猫かぶっているかもしれないっていうことです。

 「事実は小説よりも奇なり」という言葉もあるようにリアルはなんだかつかみどころがなくて、難しいです。だからこそ理解しようとするのが面白いということもあります。学問も現実を理解しようとする試みのひとつかもしれませんし、捉え方によっては「フィクション」も「ノンフィクション」の一側面をかたどった物といえるでしょう。そうしたものに触れることが「現実」を理解する手立てになると思うと「ウソ」も悪くはないのかもとも思えてきますね。「フィクション」すなわち「ウソ」でお金を取るという意味ではある意味泥棒の始まりなのかもしれませんが…。

稚拙な文章ですが読んでくださってありがとうございます(kurohato)