立教大学清談会の議事録、会長の雑記など。

「非”常”口」


 どうも、kurohatoです。今日は「常識」について話そうと思います。最近、語りたくて語りたくてしょうがないテーマなんです。稚拙かもしれませんが読んでくれたら幸いです。


 最近、立て続けに違う人から「常識」という言葉を耳にしました。

 一人目。僕は最近、以前から入っていたサークルを休部しました。そのサークルでは「退部」と「休部」が区別されていて、休部とは名前はおいておくけれどサークルの活動には一切、かかわらないということらしいです。そのことを知らずにサークル内の会議やちょっとしたイベントに参加しようとしたら、部長に「常識的に考えて、休部中はサークルの活動には参加できないでしょ」というふうに言われました。

 二人目。大学から東池袋ジュンク堂に向かって歩いているとき、たまたますれ違った友人と立ち話をしていたときのこと。就活の話になりました。この間、大学で就活ガイダンスとやらがあったこともあって、いま、大学3年生のなかで就活に対する意欲が高まっているように思います。正直、僕は今のところ就活をあまりする気はありません。(来年の今頃は「内定が~!」とかって騒いでいるかもしれないが。)その旨を友人に言うと「大学生なんだから就活やるのが常識でしょ」と言われました。


 https://storys.jp/story/8758


「『常識』とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない。」
とタイトル付けされたこの記事ではトイレの話やモテる人の基準などの観点から「常識」について語っています。日本国内で「常識」だったことが世界に出た瞬間「非常識」になってしまうことがあるとのことです。この記事自体、結構面白かったのでぜひ読んでみてほしいです。

 世界に目を向けると、今現在の世の中のことだけでも普遍的な「常識」というものはありません。まして、今の「常識」が将来、通用するかどうかなんて分からないのです。

 
 最近、新卒一括採用をやめて、通年採用にしようという流れがあります。また、コンビニエンスストアでは24時間営業の見直しをはかっています。「はたらき方改革」の一環です。この改革が今後どこに向かっていくのかは、僕ら普通の大学生では予想もつきません。

 そんななかで大学生はかつての「常識」にとらわれて、資格を取ったり、業界研究をしたり、SPIの勉強をしたり、インターンに行ったりします。みんなやっているから、ガイダンスで言われたから、という理由で周りから聞いたかつての「常識」の元で就活を始めます。

今の就活生を否定するつもりはありませんが、「常識」にとらわれるあまり、目的と手段が逆転してしまっているような気がするんです。「常識」的に生きることが目的になっているというか・・・。

 たとえば、映画を作るサークルに所属しているとしましょう。あなたは純粋に映画を作りたい、という気持ちからそのサークルに入りました。そのサークルでは1年に1本の作品を作って決まった時期に発表するという伝統がありました。最初の1,2年は新しい刺激を得ることができて楽しかった。しかし、「1年に一本は作る」という伝統に次第に違和感を抱き始めます。映画を作りたいから、サークルを運営しているのではなく、サークルがあるから作品を作るというようになってしまっているのです。

 「伝統」、すなわちその集団の中の「常識」です。いままでそうだったから、と過去にしがみついてしまっています。そんな集団で活動していて何が楽しいのでしょうか。「常識」のなかで、活動している体裁だけ保っていてなんの役に立つのでしょうか。作りたい作品があるなら3年かかろうが10年かかろうが作ればいいじゃないですか!!?「常識」なんてくそくらえですよ!!!

 こんな風にいうとそれは「理想」でしかない、「現実」をちゃんとみろ、との批判が飛んできそうです。たしかに、「理想」を追い求めるあまり人間関係がこじれたり、貧しい生活を余儀なくされたり、よくないことは起こるでしょう。それでも僕はつかみどころのない「常識」から外に出てみたいと思います。外から見てみて、おそらく「常識」というのは理にかなったものだと認識するんだと思います。そのときなって初めて「常識」を肯定的にとらえることができると思うのです。少なくとも、いつ変わるともしれない、正しいのかも分からない、そんな「常識」を脳死状態で受け入れることだけは避けたいと思います。


(kurohato)