立教大学清談会の議事録、会長の雑記など。

死に至るヤバい

こんにちは。前回のコラムから期間が空いてしまいましたが、これからも最低で隔週毎には投稿できればなあと考えているめんどうです。一応大義名分というか、自分が記事書いたりできなかった理由ですが、実は少しの間祖母の葬式で実家に行っていたので他のあらゆることが滞り、そのしわ寄せといった感じです。ちなみに私は立教大学医学部なので、その時も教科書である「死に至る病」を携行し読んでいました。(100p行くか行かないかで挫折しましたが。)私の親と祖母の関係については深い言及を避けますが、あまりいいものとは思いづらかったんですよね。それに対する抵抗というか。

そんなことはどうでもいいんですが。皆さんはいつ自分が死ぬことに気づきましたか?私は幼稚園に入る前後の当たりでした。今でも覚えているんですが、夜急に「死ぬとはどういうことか」と考え、怖くなって親に話しに行ったところ笑われた、というのが自分の「死の気づき」でした。確かに親から見れば微笑ましいものでもあったのかもしれませんが、その時思い描いた永遠の闇みたいなものは未だに脳裏に焼き付いています。死ぬのが怖いのも普段忘れてるだけで、ふと思い出すとすごく怖かったりします。周りの今接している人もみんな100年後には死んでるんだな、と思うと不気味でしょうがなかったりします。

さて。そんな風に死は不可避であるものであり、かつタブーである。これを扱うのが「葬式」という行為です。そして、この「葬式」では死んだその人を扱うことができません。当然ですが、その人の自我という物は失われているわけですから。ではどういう風にその個人を扱うか?というと、関係を通して「個人を復元する」という行為によります。個人の復元とはどういう行為か、というとそもそもある個人とはどのようなものか注目する必要があります。そしてそれはキルケゴール曰く、「それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。」。何言ってるかわかんないですね。私もわかんないです。まあ、関係がどうやらある人にとって重要であると。もっと過激?な解釈で行くと、仏教でしたら「無我」という考えがあったりします。関係こそが本物で、ある主体は存在しない。という物ですね。実は葬式っていうのはこういう考えに凄く近い行為です。葬式に集まるのは「亡くなった人の関係者」です。また、それらの人々は集まっておもに「亡くなった人について語る。」ある人がいなくなったことで消滅した関係(主体ではない)を再形成するのです。人は葬式によって復活する、とも取れます。

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f:id:rikkyouseidan:20190613165139j:plain雑な図。



 先の段落で述べた葬式と復活についてさらに言及します。人は語られることによって関係性をもたらし、その意味で復活する、と。これは自我形成であるナラティブ・セルフと似通っています。ある人が、自分がどのような人間か、自分の人生がどのようなものであったか語ることによって自分の解釈を決定させるという物です。これが他者によってなされる空間が葬式です。いうなればナラティブ・バイ・サムワンでしょうか。そしてそれは当然難しいものです。だって本人の事なんて本質的にわかるかもわからないから。だからその死んだ人の解釈は大きく二つに分かれます。個人の解釈としてのある人と、葬式の場での解釈としてのその人です。

 葬式の場ではとにかくある人についての否定的な解釈は認められません。これが様々な要因が考えられますが、やはり個人の解釈のすり合わせとしての葬式なので、ネガティブなイメージを共有するのではなくポジティブな共有の方が簡単である、といったところでしょうか。少なくとも、それで気分を悪くする人はネガティブなものの共有より少なく思えますしね。しかし、これ自体がかなり強制的にその人を好意的に解釈するという力を持ちます。これは感情にまで影響及ぼしていると思います。なんだか泣けるとか。私の母は実際に祖母といい関係ではなかったですが、葬式の時は泣いていました。だからすごい不自然な感じがして好きじゃないんですよね。これ本当に自発的な感情なのかなぐらいに思ってしまいます。

 もう一つ強制力についての言及をします。先述したように葬式は強制力を持ちますが、葬式が宗教的行為と結びつくことによってよりその強制力は隠され、強くなっているようにも思われます。例えば単純に「拝む」という行為についても。葬式においてこの行為の強制はかなりの頻度であります。で、これに抗える人って少ないと思うんです。言われるがままに拝む人しか少なくとも周りでは見たことがありません。これが宗教的行為ではない、という風に解釈する人もいますが、その単純な解釈だとこの強制力への解釈が不十分です。この強制力はすなわち「これが宗教的行為でない」とする所によります。この「拝む」という宗教的行為は、それ自身が暗に宗教的でないと否定されることによって常識的な行為に落とし込まれ、よってより強制力を持つことになっているのです。いわば「メタ宗教」でしょうか。

 個人的に問題だと思うのはこの「常識に落とし込まれた宗教的思想・行為」です。常識として扱われることによって否定が難しくなる。ですが、明確に強制されているのです。これから宗教はこのようにして日常により侵食するようにも思われます。その時に人がどれだけ抵抗力を持てるかが怪しいように思われるのです。(めんどう)