立教大学清談会の議事録、会長の雑記など。

吾輩は生きづらさである。名前はまだない。

どうもこんにちは、めんどうです。テスト・レポートが忙しくなりそちらに勤しんでいた結果、こちらの更新がおろそかになってしまいました。またちょこちょこ更新を続けられればなと思います。自分は夏に入って

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ミンミンゼミを捕まえたり

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チョウを捕まえようとしたりしてました。(捕まえられなかった)あと縄跳びで遊んでました。こういう事って、世の大学生あんまりしないですよね。なんでなんだろう。自分のぼんやりした感覚だと、中学の時には草むらや田んぼに突進していった自分たちは異端と扱われていた印象です。小学生のころにはカマキリを捕まえればヒーローだったのに。不思議ですよね。なんとなく自分はそういう世間とか、年齢とかの変化についていけないんです。だから、たまにふと自分と他の人の所謂「普通」の感覚のずれを知ると、なんだか生きづらいな、って思ったりするんです。一時期はその自分のずれが広がりすぎたのか、引きこもっていた時期もありました。

 自分自身がそうだったので、ゼミで自分は引きこもりについて焦点を当てて調査をしていました。その時自分で個人的に資料を読んでいたり、ゼミのメンバーと調べたりしていて改めて思ったのが、引きこもりは単に家に引きこもっている人ではなく、何らかの「生きづらさ」を持っていて、それが表面化した人と言えるのではないかなという事です。そしてその「生きづらさ」は誰もが(程度の差はあっても)持ち得るものなのではないかな、と。この漠然とした「生きづらさ」を扱うことが本質的な引きこもり研究なんじゃないかなと思ったのです。

 似たような問題として、社会の中で差別や人権についてだったら、LGBTQ、ジェンダーといった観点からの問題提起があります。これは確かに似ていますが、アプローチが引きこもり問題とは少し違ってきます。この問題について、人は積極的に名前を付けることで問題を解決しようとしています。同性愛者の存在、命名、その普及。そのもとでの同性同士の結婚という提案。セクハラ、リベンジポルノという命名によってある行為の問題を暴く。こういった解決方法も社会問題には必要です。事実、多くのマイノリティがこれらによって抑圧から救済されてきたでしょうから。

 では、「生きづらさ」はどうか。これはどこまでも個人的な感性に基づく、と言ってしまっても過言ではないと思います。なんだかうまく生きられない。なんだか人と馴染めない。なんだか居場所に思えない。この感覚に、自分は余り名前を付けてほしくないんです。なぜかというと、名前を付けるという事は類型化だからです。この類型化はあらゆる集団で常に起こっているといえます。「変わってるね」という言葉が典型的でしょう。社会のよくわかんない人を「変わっている人」というパターンに押し込む。この類型化って、ものすごく社会の側から個人の形を歪めたうえで社会に取り込もうとするアプローチです。そのくせ、その取り込んだ中で疎外されてしまう。そういうものすごく狡い行為なんです。

 この類型化からの脱却として、「生きづらさ」という漠然とした言葉を敢えて積極的に使うことはむしろ好ましいことにも思えます。これは単に引きこもりのためだけではありません。そもそも、社会による類型化の中で(なじめるにせよ馴染めないにせよ)個人の形を歪めて認知している状態について改めて自覚することができるからです。引きこもりや「生きづらさ」への着目は、あらゆる人を個人に開放するんじゃないか、という可能性を感じたのです。(めんどう)