立教大学清談会の議事録、会長の雑記など。

正しくなりたい、なりたくない

 こんにちは、めんどうです。最近就活という物をしているんですが、面白いぐらい箸にも棒にも掛からない。自分らしくてとてもいいと思います。きっとこれからどんどん不況になるので、結局就活失敗とかなったら面白いですね。その時はその記事を書こうと思います。

 

 そんなことはどうでもいいんですが。100日後に死ぬワニ、知ってますか?Twitterで少し前からずーっと毎日投稿されていた、何気ない日常を過ごすワニの漫画です。この漫画の一番の特徴は、タイトルの通り「ワニが死ぬことを読者はあらかじめ知らされている事」でしょうか。私はこういうのは一切フォローしないのですが、なんだかんだ毎日チェックしていました。

 問題になったのはその後です。100日たった時、つまりワニくんが死んで話が終わったときですが。やけにコンテンツの展開が早いと話題になったんです。で、探っていくと電通が絡んでいるという事で、ステマ漫画だ、とか電通によってはやらされた、とか諸々言われて作者が弁明するなど炎上案件になりました。

 演出としてコンテンツ展開が明らかにナンセンスなのはいったん置いておくとして。単純にこの「冷めた」空気が形成される過程や様々な人が電通の関係を示唆するツイートをする状況、すごい怖いなあと思うんです。というのも、一見彼らは正しいので否定が難しいんです。当然ですが電通が関わっていたのは正しいですし、ステマなのもある程度以上は正しいでしょう。

 でも、単純に叩くツイートしている人は攻撃性を発揮しているだけです。基本的には。それがどういう根拠であれ、結局やっているのはそれだけの事です。つまり、難しいのは、ある人が情報・状況的に正しい立場にいるのと本質的に正しいのか、という事は全く別の事だという事です。

 

 以前「水素水」という物がネットでネタにされた時期があります。科学的に怪しい「水素水」が販売され、それを買う人がいるのか、世間の人はどれだけ馬鹿なんだといったような空気感でした。じゃあ、私たちの信じている科学、ですが。特に私は浅学ですし、高校の教科書でイオンやら電離度やらやったな、という事を覚えているぐらいです。でも、別にこれは本質じゃないんですよ。そもそも間違っているかもしれない。高校の化学なんて別に大した内容でもないですし、簡略化されているというのは理系の友人からよく聞きました。でも、それを無批判に受け入れ、人に教えてもらっただけなのに他人を馬鹿にする道具に使っている。

 水素水を信じている人は単純に教えてくれる人がいなかった、環境が無かったという場合だってたくさんあるでしょう。その時点で私との違いは水素水を信じているか信じていないかの違いでしかありません。それを自分ができる何かだと勘違いして無知を叩くのは、単に自分の正しさを振りかざしたい、何かに攻撃したいというつまらない欲求の矛先でしかないのかなと思います。

 

 最後に。これを読んでばつが悪くなる人がいると嬉しいんですが、まあこれは僕自身への自戒でもあります。

  少し長くなってしまいました。もう少し書きたいこともあるのですが、それでは。(めんどう)

身近な数学の話

 

黄金比

f:id:rikkyouseidan:20191225201002p:plainf:id:rikkyouseidan:20191225200959p:plain



1:1.618…(だいたい5:8)

のことを黄金比といいます。もっとも美しいと言われている比です。ミロのヴィーナスやパルテノン神殿などの美術品や、ひまわりの種の並びやクジャクの羽の模様などの生き物にも見られる比です。現代ではTwitterのアイコンやapple社のリンゴのアイコンなどのデザインにも取り入れられています。

この1.618…という数は正確には

f:id:rikkyouseidan:20191225201049p:plain

という形であらわされます。黄金比のことをよくギリシア文字の「Φ(ファイ)」で表します。

f:id:rikkyouseidan:20191225201239p:plain

詳しい証明は割愛しますが、正五角形の一辺の長さと対角線の長さの比は1:Φになっています。そして正五角形の対角線をすべて結んだときにできる星形はきれいな形としてよく描かれます。もちろん、この比を意識しているわけではないかもしれませんが、星形五角形が美しい図形として描かれる理由となっているかもしれません。

1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89…

この数列はフィボナッチ数列と呼ばれています。最初と2番目が1で3番目以降は一つ前と二つ前の数字の足し算となっています。そして、この数字の中から一つ選んでその一つ前の数で割るということを考えます。左から2番目の数から順番に見ていくと、

1÷1=1

2÷1=2

3÷2=1.5

5÷3=1.666…

8÷5=1.6

13÷8=1.625

21÷13=1.615…

34÷21=1.619…

55÷34=1.6176…

 89÷55=1.61818…

というふうになり、だんだん1.618…のΦに近づいていきます。まったく関係のない五角形と数列が意外なところで結びついていますね。高校2年生までの数学を使えば、これらが数字上結びついているはっきりわかります。ただこれらはまったく別の分野の話なのでこれらの関係が必然なのか偶然なのか文系の僕にはわかりません。

 単に数学の話だけだと興味を持ちにくいテーマかもしれませんが、これが身近なデザインや生き物たちにも表れているということを知ると、惹かれてしまいますよね。

 

博士の愛した数式

小野洋子さんの『博士の愛した数式』という本があります。登場する博士は数学者だったのですが、事故をきっかけに新しい記憶が定期的になくなってしまうという状態に陥ってしまいます。その博士のヘルパーをつとめる主人公は記憶をなくしてしまう博士の世話に四苦八苦します。ですが、博士がはなす数学の話をきっかけにだんだんとうちとけていきます。主人公の息子(博士は彼を「ルート」と呼びます)も数学の話を通じて博士と仲良くなっていく、とてもハートフルなお話です。「数学」と入っているので手に取りにくいかもしれませんが、野球や誕生日などの話とむすびつけてストーリーが進んでいくので、とても楽しいです。

物語の中で「世界で一番美しい数式」とよばれるものが登場します。

f:id:rikkyouseidan:20191225201121p:plain
オイラーの公式)という式です。僕も初めてこれを見たときに何が美しいのかはもちろん、この式が何を表しているのかさえわかりませんでした。これをきちんと理解しようとすると大学数学が必要になります。

πは円周率、iは虚数単位、eは自然対数の底ネイピア数)です。「円周率は知っているけど、虚数とか自然対数とかよくわからん」という感じですよね。めちゃくちゃ大雑把にいうと

 

f:id:rikkyouseidan:20191225201134p:plain 

ということです。(ぼくもよくわかっていません)

とにかく0、1、π、i、eという成り立ちが全然違うけど、数学でよく出てくる数が一つの式におさまっているというのがすごい(らしい)です。そしてこれらの数はほかの学問領域でも出てきますし、歴史や工学との結びつきもあるそうです。数学の中だけでもいろんなことが結びついてくるのは興味深いですが、これが、ほかの分野とのかかわりがあるということを考えると世界は広いような狭いような不思議な感覚になりますね。

 

★最後に一言

隣の芝生は青く見えるといいますが、自分も文系にいるからか、たまに数学や理科に触れると楽しくなります。僕が変わっているからしょうか?もし理系の話に興味があるっていう人がいたら話をしたいものです。(kurohato)

SPFの時に描いた漫画「私」

 前々からいつか清談会のブログに貼ろうかなーと思っていた漫画「私」です。

 この漫画について概要を人に聞かれて、「ああ、よくあるやつね」と言われて、つまりこの作品が陳腐だと言われてそれで初めて完成したかなと思います。

 初めて描いた漫画ですので至らぬところは多いですが、よかったら楽しんでください。(めんどう)

f:id:rikkyouseidan:20191218091219p:plain

f:id:rikkyouseidan:20191218091221p:plain

f:id:rikkyouseidan:20191218091224p:plain

f:id:rikkyouseidan:20191218091305p:plain

 

思い立ったから岩手に行った話

 こんにちは、最近交友関係があまりに狭まりさすがに焦っているめんどうです。基本的に僕は毎週末暇です。しかし、ご存知の通りインターンに行くほど従順でもなければサークルに行ったりするほど社交的でもないので、いつも家でだらだらしていました。

 そんな僕にも突然体に変化が訪れました。

飽きた。

ある木曜の夜、余りに変化のない日常に身体はアレルギー反応を起こし、衝動的に何かがしたくなったのです。その結果、約20時間後僕は

f:id:rikkyouseidan:20191212103649j:plain

岩手にいました。

 岩手につく直前から、いやもっと言うと宇都宮駅についたあたりから「なんで俺急に岩手に行こうとしているんだろう」と思っていました。ですがそこまで来たからには引き返すのもクッソダサいし昨日急に連絡した友達が家を片付けて待ってくれているので、意地と根性で向かいました。3泊4日という事以外何も決まっていないハイパーノープラン旅行の始まりです。

 

 Twitterで「岩手って何あるの」と聞いたところたった一件のリプライが来て、「中尊寺行け」と言われたのでまずは中尊寺に行くことに。中尊寺は岩手の南の方なんですが、雪がすごい。

f:id:rikkyouseidan:20191212105924j:plain

雪すごくね?

東京で雪なんてほとんど降らないので死ぬほど興奮してました。現地の人じゃないのバレバレなのが悔しいですが、雪なんてこの時期にこんなに触れると思っていなかったので。金色堂自体は写真撮れませんでしたが「教科書で見た!」ってなりました。突発的に岩手に行ったときは是非行ってみてください。あと、水どこでも凍ってるんで誰でも水切りのプロになれます。

f:id:rikkyouseidan:20191212103525g:plain

盛岡城跡地)

f:id:rikkyouseidan:20191212103645j:plain

松尾芭蕉と談笑するめんどう

弁慶はお墓しかなかったんですが、松尾芭蕉は形を保てるの、なんか「武人と文人」って感じでいいですね

ちなみに雪を触った手で意地汚くお土産屋さんの試食を繰り返していたらその後しばらく腹痛とおならが止まなかったです。皆さんは気を付けてください。

 

 友人は岩手大学の学生だったのでそこにも遊びに行かせてもらいました。宮沢賢治ゆかりの地なのでその記念館があったりとか。

f:id:rikkyouseidan:20191212111111j:plain

 

盛岡もだいぶめぐりました。こういう地方に行くとみんな「何もない」っていうけど結構発見あるんですよね。石川啄木の家だったり、岩手山の景色とか結構見どころがあって思わず5人に分裂してしまいました。

f:id:rikkyouseidan:20191212103633p:plain

f:id:rikkyouseidan:20191212103629j:plain

「無」の銅像と撮った写真

 

岩手在住の友達も「初めて行った場所とか色々あってよかった」って言ってくれました。案外有名な観光スポットって住んでも行かないんですよね。改めてまた僕も東京の良さとか探せたらなと思います。ではまた。(めんどう)

f:id:rikkyouseidan:20191212103625j:plain

写真下手でもまあまあいい写真が撮れる位いい景色

 

ツイフェミよすすめ

 

 今日は。「人間が嫌いだから接客業以外がよくて面接に来ました」と言ったら見事にバイトに落ちためんどうです。それも3回も。バイトって落とされるんですね。さて、私は人間失格ぎりぎりのところにいるので当然Twitterはよく見ていましこよなく嫌っています。まあ世界の一番矛盾し非論理的な部分を集めているので当然世間一般では凡そ目にしないような単語を良く目にするんです。その一つが「ツイフェミ」でしょう。今回はその「ツイフェミ」に焦点を当てて話していこうと思います。

「ツイフェミ」は「Twitterフェミニズム」でできた単語ですね。では単にTwitterフェミニズムを説く人たちを意味するのかというとそうではない。端的に言ってしまえば少し受け入れがたい、頭がおかしいというニュアンスを多分に持ちます。

https://twitter.com/kouei_sy521/status/1191202986678112257?s=20

https://twitter.com/chronekotei/status/1191721283978842112?s=20

ざっとですがこのような使われ方をするのです。「宇崎ちゃん事件」等に関してはかなり細かい部分なのでここでは省略します。さて、そんな「おかしな人たち」として「ツイフェミ」という言葉を使うことに私はものすごく抵抗を覚えるわけです。それは何故か。私たち世間一般は本来間違っていて、それを指摘するのがフェミニズムだったのに、「世間一般の感性とズレているから」というそれはそれは当然のことで「ああ、これはツイフェミだ、つまり耳を貸さずに適当に批判していればいいや」と思ってしまう危険性がかなり高い、という事です。ツイフェミ批判はフェミニズム自体の否定に直結しうる、という事です。当然理性を持ってこれは議論の余地がある、これはフェミニスト側が間違っている、という考えを持てる人もいるでしょうがそれは少数でしょう。そもそも「ツイフェミ=おかしな人=取り合わなくていい人」という考えが既にTwitterでも蔓延しているので。

私はだからこうしなさい、とかどうこう偉そうにいうつもりはないですが、自分が普通で相手がおかしいんだ、と決めつける人が多いんだなあ、ぐらいに思います。正しくありたいから正しくなるんじゃなく、相手を間違っている人にするのは方法として面白いですね。

どうでもいいですが前回のメタ宗教の記事、「天皇即位の時に虹がかかった!」ってのでみんな騒いでるのを見てああまさにこれだな、と思ったのでリンクはっときますね いえーい(

死に至るヤバい - rikkyouseidanの日記

 

(めんどう)

吾輩は生きづらさである。名前はまだない。

どうもこんにちは、めんどうです。テスト・レポートが忙しくなりそちらに勤しんでいた結果、こちらの更新がおろそかになってしまいました。またちょこちょこ更新を続けられればなと思います。自分は夏に入って

f:id:rikkyouseidan:20190802011025j:plain

ミンミンゼミを捕まえたり

f:id:rikkyouseidan:20190802011235j:plain

チョウを捕まえようとしたりしてました。(捕まえられなかった)あと縄跳びで遊んでました。こういう事って、世の大学生あんまりしないですよね。なんでなんだろう。自分のぼんやりした感覚だと、中学の時には草むらや田んぼに突進していった自分たちは異端と扱われていた印象です。小学生のころにはカマキリを捕まえればヒーローだったのに。不思議ですよね。なんとなく自分はそういう世間とか、年齢とかの変化についていけないんです。だから、たまにふと自分と他の人の所謂「普通」の感覚のずれを知ると、なんだか生きづらいな、って思ったりするんです。一時期はその自分のずれが広がりすぎたのか、引きこもっていた時期もありました。

 自分自身がそうだったので、ゼミで自分は引きこもりについて焦点を当てて調査をしていました。その時自分で個人的に資料を読んでいたり、ゼミのメンバーと調べたりしていて改めて思ったのが、引きこもりは単に家に引きこもっている人ではなく、何らかの「生きづらさ」を持っていて、それが表面化した人と言えるのではないかなという事です。そしてその「生きづらさ」は誰もが(程度の差はあっても)持ち得るものなのではないかな、と。この漠然とした「生きづらさ」を扱うことが本質的な引きこもり研究なんじゃないかなと思ったのです。

 似たような問題として、社会の中で差別や人権についてだったら、LGBTQ、ジェンダーといった観点からの問題提起があります。これは確かに似ていますが、アプローチが引きこもり問題とは少し違ってきます。この問題について、人は積極的に名前を付けることで問題を解決しようとしています。同性愛者の存在、命名、その普及。そのもとでの同性同士の結婚という提案。セクハラ、リベンジポルノという命名によってある行為の問題を暴く。こういった解決方法も社会問題には必要です。事実、多くのマイノリティがこれらによって抑圧から救済されてきたでしょうから。

 では、「生きづらさ」はどうか。これはどこまでも個人的な感性に基づく、と言ってしまっても過言ではないと思います。なんだかうまく生きられない。なんだか人と馴染めない。なんだか居場所に思えない。この感覚に、自分は余り名前を付けてほしくないんです。なぜかというと、名前を付けるという事は類型化だからです。この類型化はあらゆる集団で常に起こっているといえます。「変わってるね」という言葉が典型的でしょう。社会のよくわかんない人を「変わっている人」というパターンに押し込む。この類型化って、ものすごく社会の側から個人の形を歪めたうえで社会に取り込もうとするアプローチです。そのくせ、その取り込んだ中で疎外されてしまう。そういうものすごく狡い行為なんです。

 この類型化からの脱却として、「生きづらさ」という漠然とした言葉を敢えて積極的に使うことはむしろ好ましいことにも思えます。これは単に引きこもりのためだけではありません。そもそも、社会による類型化の中で(なじめるにせよ馴染めないにせよ)個人の形を歪めて認知している状態について改めて自覚することができるからです。引きこもりや「生きづらさ」への着目は、あらゆる人を個人に開放するんじゃないか、という可能性を感じたのです。(めんどう)

死に至るヤバい

こんにちは。前回のコラムから期間が空いてしまいましたが、これからも最低で隔週毎には投稿できればなあと考えているめんどうです。一応大義名分というか、自分が記事書いたりできなかった理由ですが、実は少しの間祖母の葬式で実家に行っていたので他のあらゆることが滞り、そのしわ寄せといった感じです。ちなみに私は立教大学医学部なので、その時も教科書である「死に至る病」を携行し読んでいました。(100p行くか行かないかで挫折しましたが。)私の親と祖母の関係については深い言及を避けますが、あまりいいものとは思いづらかったんですよね。それに対する抵抗というか。

そんなことはどうでもいいんですが。皆さんはいつ自分が死ぬことに気づきましたか?私は幼稚園に入る前後の当たりでした。今でも覚えているんですが、夜急に「死ぬとはどういうことか」と考え、怖くなって親に話しに行ったところ笑われた、というのが自分の「死の気づき」でした。確かに親から見れば微笑ましいものでもあったのかもしれませんが、その時思い描いた永遠の闇みたいなものは未だに脳裏に焼き付いています。死ぬのが怖いのも普段忘れてるだけで、ふと思い出すとすごく怖かったりします。周りの今接している人もみんな100年後には死んでるんだな、と思うと不気味でしょうがなかったりします。

さて。そんな風に死は不可避であるものであり、かつタブーである。これを扱うのが「葬式」という行為です。そして、この「葬式」では死んだその人を扱うことができません。当然ですが、その人の自我という物は失われているわけですから。ではどういう風にその個人を扱うか?というと、関係を通して「個人を復元する」という行為によります。個人の復元とはどういう行為か、というとそもそもある個人とはどのようなものか注目する必要があります。そしてそれはキルケゴール曰く、「それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。」。何言ってるかわかんないですね。私もわかんないです。まあ、関係がどうやらある人にとって重要であると。もっと過激?な解釈で行くと、仏教でしたら「無我」という考えがあったりします。関係こそが本物で、ある主体は存在しない。という物ですね。実は葬式っていうのはこういう考えに凄く近い行為です。葬式に集まるのは「亡くなった人の関係者」です。また、それらの人々は集まっておもに「亡くなった人について語る。」ある人がいなくなったことで消滅した関係(主体ではない)を再形成するのです。人は葬式によって復活する、とも取れます。

f:id:rikkyouseidan:20190613165122j:plain

f:id:rikkyouseidan:20190613165125j:plain

f:id:rikkyouseidan:20190613165139j:plain雑な図。



 先の段落で述べた葬式と復活についてさらに言及します。人は語られることによって関係性をもたらし、その意味で復活する、と。これは自我形成であるナラティブ・セルフと似通っています。ある人が、自分がどのような人間か、自分の人生がどのようなものであったか語ることによって自分の解釈を決定させるという物です。これが他者によってなされる空間が葬式です。いうなればナラティブ・バイ・サムワンでしょうか。そしてそれは当然難しいものです。だって本人の事なんて本質的にわかるかもわからないから。だからその死んだ人の解釈は大きく二つに分かれます。個人の解釈としてのある人と、葬式の場での解釈としてのその人です。

 葬式の場ではとにかくある人についての否定的な解釈は認められません。これが様々な要因が考えられますが、やはり個人の解釈のすり合わせとしての葬式なので、ネガティブなイメージを共有するのではなくポジティブな共有の方が簡単である、といったところでしょうか。少なくとも、それで気分を悪くする人はネガティブなものの共有より少なく思えますしね。しかし、これ自体がかなり強制的にその人を好意的に解釈するという力を持ちます。これは感情にまで影響及ぼしていると思います。なんだか泣けるとか。私の母は実際に祖母といい関係ではなかったですが、葬式の時は泣いていました。だからすごい不自然な感じがして好きじゃないんですよね。これ本当に自発的な感情なのかなぐらいに思ってしまいます。

 もう一つ強制力についての言及をします。先述したように葬式は強制力を持ちますが、葬式が宗教的行為と結びつくことによってよりその強制力は隠され、強くなっているようにも思われます。例えば単純に「拝む」という行為についても。葬式においてこの行為の強制はかなりの頻度であります。で、これに抗える人って少ないと思うんです。言われるがままに拝む人しか少なくとも周りでは見たことがありません。これが宗教的行為ではない、という風に解釈する人もいますが、その単純な解釈だとこの強制力への解釈が不十分です。この強制力はすなわち「これが宗教的行為でない」とする所によります。この「拝む」という宗教的行為は、それ自身が暗に宗教的でないと否定されることによって常識的な行為に落とし込まれ、よってより強制力を持つことになっているのです。いわば「メタ宗教」でしょうか。

 個人的に問題だと思うのはこの「常識に落とし込まれた宗教的思想・行為」です。常識として扱われることによって否定が難しくなる。ですが、明確に強制されているのです。これから宗教はこのようにして日常により侵食するようにも思われます。その時に人がどれだけ抵抗力を持てるかが怪しいように思われるのです。(めんどう)