立教大学清談会の議事録、会長の雑記など。

ネットにおけるコメント学!

ネットにおけるコメント学!

 

こんにちは、めんどうです。僕は令和生まれTikTok育ち現代っ子なので当然夢はYoutuberです。昔はニコニコも結構見ていましたが最近はめっきりといったところ。YouTubeも別にニコニコと比べてすごくすぐれている、とは思いませんが。(いつか広告についても考察したい)

さて、動画を見ていて「コメント欄」を見る事ってありますか?自分は結構あります。これが結構不思議で、ガラパゴス諸島で進化した生き物を観察している気分になります。毎日ある実況者が飲んだものを記録しているだけのもの、「いつもありがとう」という定型文で埋まったもの。単純に動画のコメントであり、キッズが騒いでいるという一言で片づけるのはもったいないものがあるように思えます。まあそうではあるんですけど。さておき、単純にコメントと言っても上記のようにさまざまです。今回一気にそれを全部分析するのは難しいので、「なう」コメについて考えてみようと思います。

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SOUL'd OUT 『TOKYO通信 ~Urbs Communication~』 - YouTubeより)

 

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(えれくとりっく・えんじぇぅ https://www.nicovideo.jp/watch/sm1249071 より)

 

どちらも時間に関するコメントがみられます。片方は「なう」。「2019年でも見ている人」。これらに類似するコメントは余りにいろんな動画で見られるため、叩かれることもあります。それほど一般的だっていっちゃえばいいですかね。これらはネットという物の「時間の超越性」という事を示しています。当然すべてのコメントではないですし、全ての動画につくわけでもない。さらに、時間も永遠とは言えないですが、非常に高い頻度で昔の物に回帰しようとする働きがみられるのです。(この効果は昔よく言われていた「ネットが世界を小さくする」という事よりも現在は顕著でしょう。というよりむしろ、ネットが分断の象徴であるというのは有名な話でもあります。)こう表現すると、復興運動として比較してみたくなるのは「ルネサンス」です。時間のスパンや時代の状況などを色々考慮しない乱暴な考察になりますが、ルネサンスギリシャ、ローマへの回帰を目指す運動です。ただ、これは単純に特定のコミュニティ内の再評価ではありません。廃れた哲学がイスラム圏で翻訳・再評価され、それをヨーロッパ圏に逆輸入した、という過程を含みます。つまりある程度普遍性を持つものであって、「時間的にも空間的にも離れているにもかかわらず」それが評価された、というわけです。一方で現代の回帰というのはどういう物か?というと、基本的に同じようなコミュニティの中で評価され、それが物理的に海外に持ち出されることはもちろんありません。つまりあるコミュニティから時間・空間的に完全に切り離されて評価されるという事象は起こりづらくなっているのです。つまり現代の回帰というのは、価値の先鋭化です。ネットは世界を縮めはしないが、過去を今にする、もしくは今を過去にするのです。うだうだ言いましたが、注意すべきは、そこに普遍性は必ずしもあるわけでは無いという事です。(めんどう)

「名前」を覚えること

こんにちは。清談会のしきです。学部は社会学部です。この名前の由来は秘密です。暗記は得意ですが、友人の名前を覚えることは、結構、苦手です。(他人に興味がないわけでは決してないです。ないです。)

 

突然ですがみなさん、LINEの名前は本名にしていますか?僕は最近、本名にしました。何かに屈するようで嫌でしたが、色々と不便になってしまったので。「名は体を表す」と言いますが、中学生の時、オタクチックな友達をLINEに追加しようとした時に名前が(ニックネーム)@○○団になっていてギョッとし、やっぱりオタクだなあと思った。そんな思い出があります。そういう僕自身も小学生の頃はとあるDSのアプリにおいて、ギリシア神話の神をHNにして活動していました。単純にカッコいいですからね。。今となっては黒歴史です。

 

完全に余談ですね。

 

本題に入りますが歴史を勉強していて何故こんな人物の名前を覚えなければならないのだろう…と思ったことはありませんか?自分はあります。結局、歴史の事象などの関係性を繋げるのに偉人の名前を覚えることは必要不可欠な訳ですが、歴史ほど関係性が重要ではない偉人らの名前はどうでしょう。

 

自分は社会学部ということで社会学を学んでいる訳ですが、先人の学者らの考えた構想、理論には感嘆することが多々あります。おお!確かに!凄い!そう考えるわけですね。そして、大学には当然ですがテストというものがあります。凄い!と思うだけではなく、理解し、説明できる必要があるわけです。このシステム自体はinputとoutputをする事を余儀なくされ、結果的に覚えられるので自分は好きです。(テスト前は死にたくなります、が。) そんなテストに向けて勉強している中、ふと、「学者の名前、覚える必要あるか?」と思いました。名前を答えよという設問は簡単に作れるので、問題数稼ぎになります。しかし、「学者らが考えた理論は当然覚えるべき、でもそれらを考えた学者の名前は覚える必要があるか? 歴史の偉人でもあるまいし。」(社会学者に対してとても失礼ですが)その時自分はそう思ったわけです。

 

常識的に考えると、○○理論が〜という話をする時にわざわざその理論について1から話すのは面倒が臭いし、△△という学者の〜とした方が楽なので「ラベル」として学者の名前を覚えることは必要なわけです。(学者のバックボーンや学者同士の関係性などを理論と繋げる事もできますし。)歴史においては偉人らの名前は歴史という巨大なパズルを繋げ、組み合わせる「ピース」となっているわけですが、一方、社会学者の「名前」(ラベル)は彼らの構想・理論という「商品」のある種「商品名」になっている。そうとも考えられるわけです。当然といえば当然ですが、結局は「名前」を覚える必要があります。

日常生活でも「名前」がわからなければ意思疎通に苦労しますし、それだけ名前の利便性は高いわけです。また、本名ではなく、ニックネームもここでいう「商品名」として機能することもあります。いつも叫んでるからニックネームはバクオングというように。(例としては少し古いかな?)

 

ここまで「名前」について長々と話しましたが、結局何が言いたいのかというと、元々存在するもの(ここでは名前を覚える意味)をただ当たり前に受け入れるのではなく、批判的に享受する事が、学ぶ上でも、生きる上でもとても大事なのかなと思います。(たとえ、当たり前だろ!とバカにされようとも。)もっとひねくれたい!そんなひねくれ者です。今後ともよろしくお願いします。(しき)

「自己紹介」に関するいくつかの考察

どうもこんにちは。この度立教大学清談会を設立させていただきましためんどうと申す者です。キラキラしている学部代表といって過言でない社会学部在学中、得意なことは飲み会のコール、好きなお酒はハイボール

 

当然嘘です。今季取ってよかった授業は哲学概論1と文学講義404のめんどうです。社会学部にほぼ友達は居ません。昨日ほとんど初めての飲み会に行ったらノリにやられて死にました。ていうか、大体ウェイならこんなサークル立てるわけないですよね。「学問が好きでなんとなく人とそういう事について喋りたい」ですよ。別にウェイの人々を軽蔑するわけではないですが、彼らは彼らなりに別の得意なものや大切なものがあります。飲み会のコールとか。それは価値観の違いなので別に貴賤云々ではないと本気で思っています。本気で。

 

さて、以上がそんな私の所謂「自己紹介」ですが。実は私は自己紹介という行為があまり好きではありません。ウェイに意味もなくいじられるのが嫌というだけではなく根本的な存在理由が好きではないのです。というのも、自己紹介という言葉自体が割と欺瞞に思えるからです。「自己」を「紹介」なんてできるんでしょうか。

一番最初の嘘自己紹介は特によくあるタイプの自己紹介を模しています。自分が「どんな名前/所属」で「何が得意」で「何が好き」である、といったタイプのもの。では、これは本質的に自分なのか?だってその組み合わせなら無限にいるかもしれないじゃないですか。大体好きなものの数なんてたかが知れています。実際コールが得意でハイボールが好きな大学生なんて池袋西口公園に夜いけば大体全部それですよ。それ自己紹介になってなくない?故に、自己紹介は自己を紹介する行為ではなくむしろ自己を一般化し、陳腐化させる行為に思えます。

また、「自分で自分を規定する」という行為でもあると思います。すごく当たり前の事ですが、自己紹介を終えた後の周りは「○○が好きな××君」という認識になるでしょう。あなたはそのコミュニティにおいて「○○が好き」であるという風にふるまわなければならないのです。あなたがそれまでどうしていたかは関係ありません。別に缶バッジをじゃらじゃら装備していようが、アニメ2期の出来がクソだからだんだん距離をとっていようが同じように「○○が好き」というイメージが先行します。故に、それが好きだ、という人らしく振舞わなければいけなくなるのです。なんとなくある入学当初とかの「嘘っぽさ」ってこれだと思うんですよ。「○○が好きな人」らしくふるまおうとして、「○○が好きな人」として扱おうとして、現実にはない虚像の××君としてあるコミュニティの中で扱われなければならない。さっきいった一般化にも近いですね。これがたまらなく自分は好きじゃないんです。(めんどう)

お堅い話/立教大学清談会理念についての話。

立教大学清談会理念

1)基本理念

立教大学清談会(仮)は大学における学習への補完をする目的で設立、運営される。大学は義務教育を原義的にも社会的な意味でも離れた場である。当然、学問に対する理解を深めるという行為があっていいはずである。しかし、表面上講義で学ぶことはあれど単位を取るという行為に大学教育が終始してしまっている一面がある。その中でごく単純に知識や思考を愛し、他人の考えや学問に対する知見を深める真摯な姿勢というのは現代の大学生が回帰すべきものである。以上の考えから、立教大学清談会(仮)は自分たちが学んだことに対して議論を通して理解を深めることを目的としている。

 

2)求められる態度

 学問に対して向きあう姿勢。大学院を目指すような高度な知識・姿勢は必ずしも求めない。そもそも現代において特に文系教育では大学院に行くことが社会的な地位を獲得するに足りえない。これは社会的な欠陥であり、それを強制することは敷居を高くするだけの事となりえる。ごく単純にぼんやりと「興味がある」という事が入り口で構わない。そこから極端な変化も求めない。

 

 3)活動内容

 隔週程度(仮)の活動。前回の活動以降なんらかの考えさせられたことをそれぞれが好きに話し、それをまとめる。

 

 4)捕捉

「娯楽としての学問」をしたい、単純に知識を得、それをもとに考えることをしたい、というための活動を行う。