立教大学清談会の議事録、会長の雑記など。

「自己紹介」に関するいくつかの考察

どうもこんにちは。この度立教大学清談会を設立させていただきましためんどうと申す者です。キラキラしている学部代表といって過言でない社会学部在学中、得意なことは飲み会のコール、好きなお酒はハイボール

 

当然嘘です。今季取ってよかった授業は哲学概論1と文学講義404のめんどうです。社会学部にほぼ友達は居ません。昨日ほとんど初めての飲み会に行ったらノリにやられて死にました。ていうか、大体ウェイならこんなサークル立てるわけないですよね。「学問が好きでなんとなく人とそういう事について喋りたい」ですよ。別にウェイの人々を軽蔑するわけではないですが、彼らは彼らなりに別の得意なものや大切なものがあります。飲み会のコールとか。それは価値観の違いなので別に貴賤云々ではないと本気で思っています。本気で。

 

さて、以上がそんな私の所謂「自己紹介」ですが。実は私は自己紹介という行為があまり好きではありません。ウェイに意味もなくいじられるのが嫌というだけではなく根本的な存在理由が好きではないのです。というのも、自己紹介という言葉自体が割と欺瞞に思えるからです。「自己」を「紹介」なんてできるんでしょうか。

一番最初の嘘自己紹介は特によくあるタイプの自己紹介を模しています。自分が「どんな名前/所属」で「何が得意」で「何が好き」である、といったタイプのもの。では、これは本質的に自分なのか?だってその組み合わせなら無限にいるかもしれないじゃないですか。大体好きなものの数なんてたかが知れています。実際コールが得意でハイボールが好きな大学生なんて池袋西口公園に夜いけば大体全部それですよ。それ自己紹介になってなくない?故に、自己紹介は自己を紹介する行為ではなくむしろ自己を一般化し、陳腐化させる行為に思えます。

また、「自分で自分を規定する」という行為でもあると思います。すごく当たり前の事ですが、自己紹介を終えた後の周りは「○○が好きな××君」という認識になるでしょう。あなたはそのコミュニティにおいて「○○が好き」であるという風にふるまわなければならないのです。あなたがそれまでどうしていたかは関係ありません。別に缶バッジをじゃらじゃら装備していようが、アニメ2期の出来がクソだからだんだん距離をとっていようが同じように「○○が好き」というイメージが先行します。故に、それが好きだ、という人らしく振舞わなければいけなくなるのです。なんとなくある入学当初とかの「嘘っぽさ」ってこれだと思うんですよ。「○○が好きな人」らしくふるまおうとして、「○○が好きな人」として扱おうとして、現実にはない虚像の××君としてあるコミュニティの中で扱われなければならない。さっきいった一般化にも近いですね。これがたまらなく自分は好きじゃないんです。(めんどう)