立教大学清談会の議事録、会長の雑記など。

著作権、違法DL云々

違法DLを議題に挙げたいと言っていた他の会員がいたので暇つぶしに書いてみる。どういう観点からの話をしたいかわからないので取り敢えず法的な話題を交えながら解決できるかどうかについて書こうと思います。

私は法学部に所属しているのですが著作権関連は本当に難しいなと思います。なぜなら知的財産権は犯罪性が非常に分かりにくい分野なんですよね。例えば有名企業のロゴに似ているロゴが印刷された商品があるとします。その商品がパロディで済まされるかどうかは裁判所が決めます。そういった裁判が企業同士で行われているのですから、法律にそこまで詳しくない私達一般人にはその判断は難しいですね、企業ですらその千疋はっきりと分かっていないと思います(詳しくはプーマ・シーサー事件を調べてみてください)。

私の感覚では著作権関連の問題は「悪意」の有無が非常に大切なファクターになっています。ここでの「悪意」は一般的な意味と法学的な意味の2つを含んでいます(法学的な「悪意」とは「そのことについて知っていること」です)。そしてこの部分が非常に違法DL問題の解決を困難にしていると思います。というのも著作権法は一般的に知られているとは言い切れない部分があるからです。それによって2つの問題が発生していると私は考えています。

1つめの問題はそもそも違法DLを犯罪だと思わずに行っているケースがあるということです。最近のケースで有名なものは「漫画村」でしょう(「漫画村」の違法性は複雑な話なのでここでは一旦違法であるとして話します。)。利用者の中には本当に「漫画村」が合法だと信じ切って利用していた人は存在していたと思います。なぜなら公式や一部の人間が合法性を主張していたからです。

2つめの問題は違法DLに罪悪感、簡単に言えば後ろめたさが薄いということです。もちろんそれは個人差があると思うのですが、例えば殺人や窃盗、詐欺のように気が付いたらそれを犯罪として認識していた事例とは違い違法DL行為そのものはクリックひとつだったりして罪悪感を感じにくい、言い換えると犯罪感がないのです。

これらのことから違法DLがなくなることは難しいかな、というのが個人的な結論です。そもそも悪いことであるという意識が窃盗等に比べて持たれづらいものですから、仕方ないといえば仕方ないのかな、と。更に言うのであれば違法DLも含め著作権法にはかなりグレーな領域があるのでそれに関する明文化や罰則化をする動きがあるのですが、その法改正も賛否両論がありすぐに行われるということはなさそうです。この問題を解決するにはそもそもの違法アップロード者を取り締まるというのが遠回りに見えて一番の方法なのではないかなと思ったりします。

「非”常”口」


 どうも、kurohatoです。今日は「常識」について話そうと思います。最近、語りたくて語りたくてしょうがないテーマなんです。稚拙かもしれませんが読んでくれたら幸いです。


 最近、立て続けに違う人から「常識」という言葉を耳にしました。

 一人目。僕は最近、以前から入っていたサークルを休部しました。そのサークルでは「退部」と「休部」が区別されていて、休部とは名前はおいておくけれどサークルの活動には一切、かかわらないということらしいです。そのことを知らずにサークル内の会議やちょっとしたイベントに参加しようとしたら、部長に「常識的に考えて、休部中はサークルの活動には参加できないでしょ」というふうに言われました。

 二人目。大学から東池袋ジュンク堂に向かって歩いているとき、たまたますれ違った友人と立ち話をしていたときのこと。就活の話になりました。この間、大学で就活ガイダンスとやらがあったこともあって、いま、大学3年生のなかで就活に対する意欲が高まっているように思います。正直、僕は今のところ就活をあまりする気はありません。(来年の今頃は「内定が~!」とかって騒いでいるかもしれないが。)その旨を友人に言うと「大学生なんだから就活やるのが常識でしょ」と言われました。


 https://storys.jp/story/8758


「『常識』とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない。」
とタイトル付けされたこの記事ではトイレの話やモテる人の基準などの観点から「常識」について語っています。日本国内で「常識」だったことが世界に出た瞬間「非常識」になってしまうことがあるとのことです。この記事自体、結構面白かったのでぜひ読んでみてほしいです。

 世界に目を向けると、今現在の世の中のことだけでも普遍的な「常識」というものはありません。まして、今の「常識」が将来、通用するかどうかなんて分からないのです。

 
 最近、新卒一括採用をやめて、通年採用にしようという流れがあります。また、コンビニエンスストアでは24時間営業の見直しをはかっています。「はたらき方改革」の一環です。この改革が今後どこに向かっていくのかは、僕ら普通の大学生では予想もつきません。

 そんななかで大学生はかつての「常識」にとらわれて、資格を取ったり、業界研究をしたり、SPIの勉強をしたり、インターンに行ったりします。みんなやっているから、ガイダンスで言われたから、という理由で周りから聞いたかつての「常識」の元で就活を始めます。

今の就活生を否定するつもりはありませんが、「常識」にとらわれるあまり、目的と手段が逆転してしまっているような気がするんです。「常識」的に生きることが目的になっているというか・・・。

 たとえば、映画を作るサークルに所属しているとしましょう。あなたは純粋に映画を作りたい、という気持ちからそのサークルに入りました。そのサークルでは1年に1本の作品を作って決まった時期に発表するという伝統がありました。最初の1,2年は新しい刺激を得ることができて楽しかった。しかし、「1年に一本は作る」という伝統に次第に違和感を抱き始めます。映画を作りたいから、サークルを運営しているのではなく、サークルがあるから作品を作るというようになってしまっているのです。

 「伝統」、すなわちその集団の中の「常識」です。いままでそうだったから、と過去にしがみついてしまっています。そんな集団で活動していて何が楽しいのでしょうか。「常識」のなかで、活動している体裁だけ保っていてなんの役に立つのでしょうか。作りたい作品があるなら3年かかろうが10年かかろうが作ればいいじゃないですか!!?「常識」なんてくそくらえですよ!!!

 こんな風にいうとそれは「理想」でしかない、「現実」をちゃんとみろ、との批判が飛んできそうです。たしかに、「理想」を追い求めるあまり人間関係がこじれたり、貧しい生活を余儀なくされたり、よくないことは起こるでしょう。それでも僕はつかみどころのない「常識」から外に出てみたいと思います。外から見てみて、おそらく「常識」というのは理にかなったものだと認識するんだと思います。そのときなって初めて「常識」を肯定的にとらえることができると思うのです。少なくとも、いつ変わるともしれない、正しいのかも分からない、そんな「常識」を脳死状態で受け入れることだけは避けたいと思います。


(kurohato)

「尊い」から見るオタク論

 こんにちは。客観的に見ればオタクであるんでしょうが自分は絶対にオタクだと名乗らないめんどうです。ただ、これは別にオタクの事が特別嫌いなわけではありません。なぜなら私はウェイの中に入っていきたいともウェイと自分を定義したいとも思わないからです。というのも、オタクもウェイも単純に「個人としてこうである」というものからかけ離れていると思うからです。つまり、彼らはどちらも「オタクのコミュニティ」「ウェイのコミュニティ」という物に必然的に属しています。そこで何らかの自己表現やコミュニケーションを行うという事がオタクであること、ウェイである事には多分に含まれるのです。つまり、オタクやウェイはどこまでも「社会的」なステータスなのです。さて、ここまで聞けばわかるでしょうが、そう、私はぼっちです。現在大学生ですが一人で受けない授業は有りません。所謂リア垢ではないTwitterのアカウントを作っても誰もフォローしないし当然フォローされません。私はオタクにもなれないしウェイにもなれない存在なのです。なんで導入のつもりがただの自虐をしているんだろう。というかこの「界隈も含めてオタク」論はもう少しいつか掘り下げたいですね。

 さて、そんな私が全く入ることのできないオタク界隈でよく使われるようになった「尊い」という言葉について分析していこうと思います。当然オタクの中でもトレンドという物はあるわけで、それはある時期に放映されるアニメに基づくものであったり、「バブみを感じてオギャる」のように属性に基づくものであったり、(少し古いですが)「俺の嫁」のように使われる定型文としての流行であったりすると思います。尊い、はこの中では基本的に最後の物に分類できるでしょう。当然ある程度の類型という意味は持ちますが。で、「尊い」という言葉が所謂オタク的な意味で使われるようになったのは比較的最近です。

Pixiv : 尊い (とうとい)とは【ピクシブ百科事典】

ねとらぼ: 二次元キャラやコンテンツに対して使われる「尊い」ってどういう気持ち? - ねとらぼ

2014年ごろ女オタクを中心に始まった、というのは結構多くのオタクの印象なんじゃないでしょうか。元々はBLに対して多く使われていたようなイメージもあります。まあこれは個人的な印象論なのであまり参考にはなりませんが。なんにせよ、それが広まってより一般的に尊い、という言葉が使われるようになったという事です。ではなぜ女オタクから?さらに男性オタクに広がったのか?という事を考えていこうと思います。そもそも「尊い」という言葉は明確に「俺の嫁」とは違います。なぜなら「尊い」はそれを発現する主体と対象を明確に分離させる意識が働いているからです。(これは数人に訊いてみたところ一応やはり意識としてあるらしいです。)自分より優れたものとして認識し、分離する。一方俺の嫁は自分の所有物としてのキャラクターへの意識が露骨に出たものです。ではその意識は女性オタクのどこから来たのか、というと所謂「腐女子」文化(=ボーイズラブ、BL嗜好)であるでしょう。主体としては女性が、男子同士の恋愛を想像する。そして自らを腐っていると低く定義する。実際、昔は腐女子に対する風当たりは今より強かったです。オタクの中のさらにスティグマ、といった感じでしょうか。まあなんにせよ、こうして「尊い」の基盤、構図は尊い以前にできていたのです。それが語彙として発露しバズったのが2014年というのに過ぎないでしょう。では2014年以降何があったか。…

 

そう、ラブライブです。

 

一応断りますが、本気で言ってます。まず前提として2014年はラブライブ二期が放映された時期に丁度重なります。このアニメは9人の学園アイドルが学校に人を集めるためになんか色々頑張る話です。重要なのは「アイドル」であり、「男性が排除されている」という要素です。そもそもアイドルは「嫁」ではなく「推し」です。自分と相手との情緒的関係というのはほとんど無視される(というかそもそもないのですが)表現がされるという事です。また、男性が居ない(投影されるべき男性の姿が無い)のはそれに大きく寄与したでしょう。同じくアイドルを扱ったアイドルマスターは男性であるプロデューサーが出演しているので個人的なつながりを連想させます。つまり、対象と主体を分離させるには足らなかったという事です。一方で恋愛的要素・性的要素は残ったため女性同士の恋愛である「百合」が流行したのでしょう。投影的・主体的な萌えとしての「オギャる」という言葉が遅れて登場・流行しているのはその代償であるようにも思えます。ただ、それも一般的なジャンルとなれたかというとそうでもなく、一過性の物であったように思われます。さらに、分離の作用はより広範囲にわたることになり、twitterの漫画である先輩がうざい後輩の話のリプライ(

 

)のように男女間の恋愛でも使われるようになりました。どこまで行っても主体的経験(投影)となれない文脈が誕生しつつある、という事です。

 これからのオタクは、自らとコンテンツやキャラを分離させる「尊い」意識と、主体的経験としてあるコンテンツを受容しようとする「俺の嫁」意識のジレンマの中で生きていくことになるように思われます。(めんどう)

学びは無知の自覚から

 

こんにちはマクドナルド周真です。今回は差別について、 たいへんセンシティヴなトピックであると同時に、まだまだ至らない点が大いにあるのですが、少しばかり考察を述べたいと思います。

 

まず始めに、同情を誘うつもりは全くないのですが、自分は見た目や名前で差別といえることにあう機会が比較的多いです。それが嫌で仕方なかったときもありますが、それはいわゆる「生まれつき」のことで自分に決定権があったわけではないし、後から自分で変えられることでもありません。ですから、そこをおかしいと言われたってあなたにも僕にもその責任をとることもどうすることもできないことなのです。

 

年をとるにつれ、 そういったことは別に気にしなくなりました。というのも、いくら自分が「みんなと同じように、普通にとらえてほしい」と思っても、もしかしたら自分が思ってる「みんな」が「普通」(特におかしくない)だったり、「正しい」わけではないかもしれない。 そして、自分の力で人間の思考を自分の都合の良いように変えることは、たった一人でさえ、ほぼ不可能なことです。ですから、仕方ないとある程度割りきっています。(実際のところ自分自身、他人と違ったあり方を好む節があるので差別や蔑視などは避けて通れない道ですね(笑)。)

ですが、いったん属性を忘れてもらって、いち人間として一般的な立場をとって言っておきたいことがあります。

 

大学二年生のときに一時期やっていたカフェのバイトでの体験を例にとって話していきましょう。

それは、店長が「名札なんだけど、私は別に気にしないんだけど、あなたの苗字(「マクドナルド」)だとお客様が変に思ったり、勘違いとかされたりするだろうし、あなたもそれに対していちいち説明するのは、面倒でしょう。だから名前だけを名札にのせることにした。」と僕に言ったことです。

実際、僕の苗字は「イギリスでは有名な苗字なんですよ。」とか、「あなたが想像する、あの某有名ファストフード店とはスペルが違うんですよ。」といちいち一人一人に説明するのは死ぬほど面倒くさいです (笑)。(そもそも、そのような説明をしても納得しないと思いますし。)

僕の場合はこういったことにはもう慣れてるので、何でも良かったのですが、一般的に見ると、これは立派な差別なのではないでしょうか。そしてここにおいて重要な問題は、「それが差別か否か」ということではなく、平気で責任放棄をして、遠回しに差別を正当化するようなレトリックがみられることです。

ここにおいて店長は「私は別に気にしないんだけど」(あくまで尊重してるよという保険)という前提をおき、その後「お客様」に責任を放っています。そして、店長が真に意図することは、「あなたの苗字は経営上、邪魔になるので察してね」ということであります。

 

さて、僕のぶっちゃけどうでもいい話を聞いたところで、「結局差別されたことを嘆いてるだけじゃないか」と言いたくなると思います。 僕が差別について考える理由は、自分にとってそれなりに身近だからというわけではなく、一般の人々より一定以上身近なのにも関わらず、僕も無意識のうちに差別をしてしまうからです。よく「差別について知らないのが(世の中には知らない方が得することもある的な)、関わらないのが差別をしないための最善策だ」のようなことが指摘されますが、「知らないうちに、関わってないと思っているうちに」あなたも僕も差別をしてしまっているのです。そこにおいて、差別をしたという意図があったか無かったかは全くもって重要ではありません。そこで重要なのは、自分が無意識のうちに差別したことに気づいて反省的に学ぶこと、差別について知ることです。当たり前のことですが、日本人が黒人差別についていまいちイメージが掴めないのは、それを知らないからです。単に知らないでおけば良いといったような態度では麻生さんのような発言を招くことになるかもしれません。

 

ただし、僕がここで指摘しておきたいのは、必ずしも、頻繁に差別される立場にいるからといってその人の意見が正しいとしたり、特別視されるべきではないということです。

つまり、社会的マイノリティが社会的マイノリティを批判することは許される、またはそういった批判が容易に説得力を帯びるといったことには十分注意するべきだと思います。

例えば、「私だって、俺だって、差別されたことを並べようと思えば数えきれないほどある。同じ社会的マイノリティとして言わせてもらうけど、そんなのをいちいち訴えてたってそれが差別の撲滅に繋がる訳がないじゃないか。これからも差別はされていくんだからそんな些細なことで嘆いてるんじゃない。もっと強くならなきゃだめだ。」と。

こういった発言は一見もっともな意見に聞こえるが、その背景には、 彼/彼女がマイノリティという立場で社会のなかで成功を収めたという経験から得られるある種の自信、特権のようなものが感じられる場合が多いのです。  社会的マイノリティだからと言って、社会的マイノリティのことをよく理解していると思ったら大間違いです。マジョリティとマイノリティの格差はもちろんのこと、マイノリティそれ自体のなかにも格差は存在するということを忘れてはいけないのであります。

 

長々と書いても話がまとまらなくなってくる一方なので、今回はこのあたりで終わりにしましょう。(Mac

ゆたぼん炎上騒動の考察

沖縄在住小学生Youtuberの「少年革命家ゆたぼん」というYoutuberを知っていますか?ネットニュースにも取り上げられて今話題になっています。彼は「不登校でも不幸じゃない」、「嫌なら学校に行くな」という主張をしています。この主張だけ聞いていると近年のトレンドである主張に近いのではないかな、と思います。

そんな彼ですが今インターネット上でいわゆる炎上をしています。Youtubeの動画は概ね低評価が高評価を上回っておりコメントも彼を批判する内容が大半を占めています。その内容は大まかに分けると2つに分けられると思います。

1つ目はルールを守っていないことを批判する内容でした、Youtubeの規約の話であったり、義務教育の話であったりしましたが突き詰めていくと彼がルール違反をしているということに関しての批判でした。

2つ目は不登校であること、またその理由でした。彼は「ロボット」になりたくないから不登校になったそうです。彼の定義する「ロボット」とは親や教師のいいなりになり続ける子どものことを指しています。その過程で宿題をすることを拒否しているところをピックアップして批判している人が多数いました。

1つ目に関してはこれらの批判は彼に向けられるべきではないのではでしょうか?Youtubeの規約は親の承認があればひとまず問題ないでしょうし、義務教育についても憲法や学校教育法を根拠に批判しているのならば彼の両親が責められるべきであり、彼が責められるいわれはないのです。

ここでしっかりと検討したいのは2つ目のコメントで取り上げられていた部分です。彼は学校で教師の言いなりになって宿題をしている子どもを「ロボット」と表現して批判し、自分はそうなりたくないと登校拒否になりました。私が思うに彼の主張はそこまで的外れではなく、彼の行動は一つの選択肢であると思います。日本の教育というものは学問的な意味も当然含まれていますが普通に社会で生きていく、所謂サラリーマンの育成的な意味も多分に含まれています。つまり企業の「ロボット」であるサラリーマンを育成している機関でもある学校に「ロボット」になりたくない彼が学校行かないという選択をするのは至極当たり前のことなのではないか、と私は思うのです。

もちろん彼の選択には大きいリスクがあります。一般的な生き方であるサラリーマンになるという道を閉ざしてしまったことです。ざっと調べたところ日本でのサラリーマンの割合は87%でほぼ9割です。つまり9割の人が将来行き着く生き方を彼は選びづらい状態にしています。しかしこのリスクも彼が自分で負うだけなのですから私達外野が批判すべきことではない、自由の範囲の中のことではないかなと思います。

むしろ彼の一番の問題は「不登校」関連の言動にあると私は考えます。彼の主張する「死ぬぐらいなら学校行くな」は理解できるのですがその言葉を彼が発している、それが一番の問題ではないでしょうか。おそらく彼のチャンネルのコンセプトは「不登校であるゆたぼんが楽しく生きている様子を投稿して不登校でも楽しく生きていくことができることを示す」ことなのでしょうが、そもそも「ゆたぼん」たる彼は大して辛い思いをして不登校になったわけではないのですから状況がまるで違います。死にたくなるような精神状態で不登校になって果たして彼のように生きていけるのでしょうか?さらに付け加えると彼の動画のターゲット層は子どもやその親だと思われるのですが子どもがあの動画をみて彼を真似する可能性、つまり「宿題が嫌なら学校に行かなくてもいいんだ」という発想をして不登校になり彼の背負ったリスクをその子どもに背負わせてしまう危険性を少しも考えていないところにこそ彼の問題点があるのではないでしょうか。(なんでもいいです」)

全てのりょうくんグルメ関係者に伝えたいりょうくんグルメ論

 (この記事は5月7日に行われた清談会での議論の内容を多分に含みます。記事を書くにあたって、特に炬燵さんに感謝をしたいと思います。)

 こんにちは。りょうくんグルメ分析者の代表格、めんどうです。あまりにりょうくんグルメに近づきすぎたため、家の近所にはタピオカが売っていますしスーパーにはチーズが売っています。そういえば中学校の時の一番の友達はりょうくんでした。これはもう自分はりょうくんそのものなのでは?とアイデンティティが崩壊しそうになることもあるくらいです。というわけで、今回はりょうくんグルメの分析をしてみようかなと思っています。

 そもそもりょうくんグルメとは、(っていうのはあんまり説明したくないんですけど、)簡潔に言うとTwitterのアカウントの一つで、様々なグルメを紹介しているものです。特徴的なのは「りょうくんグルメ構文」。

(彼のTwitterアカウント https://twitter.com/uryo1112?s=17

https://twitter.com/uryo1112/status/1126059368632315905?s=20

https://twitter.com/uryo1112/status/1125721616422322176?s=20

二つ見比べてみるとほぼ一緒ですね。てかまあ投稿はほぼ全部一緒なんですけど。見ているといろいろすごいのはフォロワー数で38万人。つまりまあかなり人気のアカウント、という事ですね。でも、他にもいろいろな紹介アカウントがある中なぜ彼がバズったのかについて考えていこうと思います。

 まず一つとして、アカウントの名前です。ランチ、と検索するといろいろ出てくるので適当なのを上げてみると

 

 

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こんなものが出てくるわけですが、これとりょうくんグルメの決定的な違いは「主体の存在」です。後者のアカウントは純粋なグルメへの追及をしており、それがアカウント名にも反映されています。つまり「誰が食べているか」という事の排除です。一方りょうくんグルメは「りょうくん」という人間が主体的な経験として何かを食べ、それを一見情緒的・感情的な表現で「伝われ」というため善意としての布教といったニュアンスを多分に含ませることができます。感情への訴えかけと主体の存在を想起させるアカウント名は実にシナジーがあるといえます。

 しかし、同時に都合よく主体性(もしくは人間性)を排除しているアカウントでもあるのです。ツイート一覧を見ればわかるのですが、彼はグルメ以外のツイートをほぼしていません。「つぶやき」として何かを(直接的に)吐露することが無いのは非常に冷静で一方便利です。「グルメのつぶやきがみたい」から結局人はフォローするのであって、そこに他の人間的な要素は要らないわけですから。

 また、りょうくんグルメ構文もバズりの一助となっているように思われます。というのもこの構文はネットにおけるコミュニケーションが最終的に行きつくものに近く思われるからです。ネットでは当然多分に文字でのコミュニケーションが行われます。その中で、言葉というのは変容していくわけですが、あまりにも大量に・多方面に使われた結果、言葉はただの定型文化し、無意味になります。所謂なんj発祥の「ンゴ」に近いものがあるでしょう。多くの人が同時に異なる解釈をしていくことを繰り返すと、言葉の意味がだんだんすり減って無意味になるのです。りょうくんグルメはその点でまさにこのコミュニケーションに合致するものがあります。新しい情報を解釈するのは面倒くさい、けれど知ることは知りたい、という点で非常に都合のいいアカウントとして、りょうくんグルメは存在する、というわけです。(めんどう)

Is reality really real?

 「うそつきは泥棒の始まり」というフレーズを誰しも一度は聞いたことがあると思います。この言葉自体、「うそつき」と「泥棒」の間にいろいろ飛躍してることがあってまさに「ホントに?」と疑ってしまいたくなりますね。まあ、言葉のあやっていうことで今のところはそこは深入りしないでおきましょう。

 ところでわたしたちは日常的に「ウソ」に接しています。一番分かりやすいところでいうと映画やドラマ、小説やマンガといったフィクション作品です。実際には存在しない人を描いたり、自分ではない人のふりをして自分のものではない言葉を発したり・・・。これって「あ、オレオレ」で始まって「〇〇さんという人がお金を受け取りに行くから」という詐欺の常套手段と同じですよね?しかも金額の大小はあれどお金をとられる(取られる・盗られる)という点でも同じです。どうして同じ「ウソ」なのに一方は「文化」として人々に受け入れられ、もう一方は「詐欺」として人々から蔑まれるのでしょうか。

 これらのあいだの大きな違いとして「ウソ」であるということをあらかじめ公言しているか隠しているかという点が上げられます。小説にしろ、映画にしろ、最初から「本物」ではないということを知っていたらそれを丸ごと「楽しもう」といって「ウソ」にすすんでお金を払うのです。しかも内容を徹底的に「虚構」すなわち「ウソ」で固めたもののほうがおもしろくて、中途半端に「リアリティ」を追求したものは凡庸に感じてしまいます。もちろん映画や演劇などではストーリーだけではなく演出技法によっても面白くなるとは思います。ですが、演出技法も「日常」では気にも留めないようなことに焦点をあてたり、そもそも「日常」からはかけ離れた表現をしたりと、「日常」すなわち私たちが普段見ている「現実」とはかけ離れているという点で「ウソ」の一種だと思います。そう考えるとストーリーにしろ、演出にしろ、どうも僕たちは「ウソ」を求めているようです。

 一方、オレオレ詐欺のような「ウソ」は「ウソ」であるということを隠しています。最初は本当に「息子が事故にあった」と信じていたのに後になってそもそも電話をかけてきた相手が息子ですらなかったという「現実」を知ってしまうというのは文字通り「騙された」と思います。本当に息子が事故にあっていたなら100万円振り込んだところでショックは小さいのではないでしょうか。(もちろんその場合、純粋に息子を心配するとは思いますが…)つまりわたしたちはわたしたちが生きている「現実」そのものが「ウソ」になるのがいやなのかなと思います。

 思うに僕たちは「ウソ」を「ウソ」と知った上でそれを傍観しているのが好きなのではないでしょうか。「ウソ」か「マコト」か分からないような「現実」よりも徹底して「ウソ」だと貫き通している「フィクション」のほうが安心できるという気持ちはなんとなく分かります。アニメで出てくるようなかわいい女の子や白馬に乗って迎えに来てくれる皇子様は存在しませんが、存在しないと分かっているからこそ魅かれてしまうと思うのです(笑)。仮にそのような人が「現実」に存在したとしても「真実」の皮をかぶった「ウソ」であるという可能性も十分あるということです。誤解を恐れずにいうと一見「理想」的な人も猫かぶっているかもしれないっていうことです。

 「事実は小説よりも奇なり」という言葉もあるようにリアルはなんだかつかみどころがなくて、難しいです。だからこそ理解しようとするのが面白いということもあります。学問も現実を理解しようとする試みのひとつかもしれませんし、捉え方によっては「フィクション」も「ノンフィクション」の一側面をかたどった物といえるでしょう。そうしたものに触れることが「現実」を理解する手立てになると思うと「ウソ」も悪くはないのかもとも思えてきますね。「フィクション」すなわち「ウソ」でお金を取るという意味ではある意味泥棒の始まりなのかもしれませんが…。

稚拙な文章ですが読んでくださってありがとうございます(kurohato)